 
                                日本にはたくさんのクラシック系ヴァイオリニストがいます。ソリストに限りますと今世紀初めくらいまでは女性が優勢でしたが今は男女半々、若手では男性がやや優勢な感じです。オーケストラの団員を見渡しますと、こちらはほぼ男女同数です。音楽家を男女に分けて考えるのは完全に時代遅れですが、聴き手側からしますと意識してしまうのは仕方ないかもしれません。
12月7日の「フレッシュ・アーティスツ fromヨコスカシリーズ 68」(ヨコスカ・ベイサイド・ポケット)に登場しますヴァイオリニスト栗原壱成は、日本ヴァイオリン界期待の若い才能です。横須賀出身、2024年10月に行われた「日本音楽コンクール」ヴァイオリン部門で1位となっています。共演するピアニスト、南ことこ も同じコンクールのピアノ部門で3位に入賞していますので、まさに「フレッシュ・アーティスツ」です。
音楽家のバイオを見ますと「日本音楽コンクール」の名が頻繁に登場します。これは毎日新聞社と日本放送協会(NHK)が主催する日本で最も権威と伝統のあるコンクールで、古い世代の音楽関係者は「毎コン」などと呼んでいました。現在は「日本音コン」と略して言う人が多いようです。国内の音楽コンクールは幾つあるのかわからないほど多数ありますが、最難関なのはこのコンクールで、文字通り日本のクラシック系音楽家の登竜門。他のコンクールで上位入賞しても、「日本音コン」では必ずしも本選にまで残れるとは限らないほどです。
そんなコンクールで昨年度優勝したのが栗原壱成さんでした。2024年10月27日、東京オペラシティコンサートホールで行われた本選では、角田鋼亮指揮、東京フィルハーモニーをバックにチャイコフスキーの協奏曲を演奏。この時すでにもう「プロ」の風格を感じさせました。協奏曲の演奏は交響曲などとは違い、細かな部分にソリストの自由な裁量が認められていて(楽譜通りに演奏しなくても良い、という暗黙のお約束)、彼もそれに従って特に第3楽章など自由に気持ちよく演奏、その落ち着きぶりは半ば「プロ」を思わせました。
栗原&南のデユオは今回のリサイタルでバッハ、ベートーヴェン、イザイ、ヤナーチェク、パガニーニと多彩なブログラムを予定しています。「イザイ、ヤナーチェクは知らない」という方も多いでしょうが、今回採り上げる2作品は20世紀後半ころからヴァイオリニストのレパートリーに入り始め、今はもう定番曲になっています。この2曲を演奏したことがない、知らないという人は「プロ」の中にはいない、実はそのくらい有名な作品です。
最初に演奏されるバッハ(1685~1750)「パルティータ第2番ハ短調」BWV826は、南さんによるピアノ・ソロ演奏です。「パルティータ」は全6曲セットの鍵盤作品集で、バッハの数多い鍵盤作品(オリジナルはチェンバロまたはクラヴィコードのために作られています)の中でもっとも現代のピアノを使った演奏に適しているとされています。その第2番はハ短調という調のためもあって劇的な表現に適した作品で、冒頭の悲愴感あふれる雄大なシンフォニアは、ベートーヴェンの「悲愴ソナタ(ハ短調)」冒頭に影響を与えたとかもしれないという人がいるほどで、現代のコンサート・ピアニストに好んで演奏されています。
続くベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ第1番ニ長調」作品12-1はベートーヴェン27~28歳時のまだ若い時代の曲です。交響曲第1番はこの1~2年後、ピアノ協奏曲第1番(実は創作年では第2番に当たります)やピアノ・ソナタ第1番はこの2~数年前の曲です。「第1番」というと初期の”若書き“作品のように思いがちですが実際にはその正反対。青年ベートーヴェンのエネルギーが溢れる全3楽章の力作で、第1楽章は主題または動機とされるものが4つも登場(普通は2つまたは3つ)、第2楽章は色々なことが起こる変奏曲、最終第3楽章は遊びやユーモアたっぷりの(あまり言われませんがベートーヴェンの音楽は変な駄洒落やオヤジギャグを思わせる箇所があちこちにあります)ロンドです。
19世紀末から20世紀にかけてのベルギーの大ヴァイオリニスト、ウジューヌ・イザイ(1858~1931)の「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調」は1924年作。全6曲中の2番目のものに当り、フランスの大ヴァイオリニスト、ジャック・ティボー(1880~1953)に献呈されています。この曲には著しい特徴があり、全体の冒頭でバッハ「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番」からの直接・間接の引用があります(楽譜の5箇所にはっきり目印が付けられています)。これは大文字で記入されているOBSESSION つまり日本語で言う「固定観念」また「妄執」「執念」「幻影」などです。さらには、4つの楽章全体に、グレゴリオ聖歌の有名な旋律「怒りの日」(ディエス・イレ/ベルリオーズが『幻想交響曲』の終楽章で用いた不気味なメロディ)が鳴り響き、これがバッハの明快なモティーフに絡まり、それを徐々に解体していく、という凝った内容です。もちろん、そのような事を気にせずに聴いても構いません。ハーモニーなどは少し近代的に聴こえるかもしれません。
生涯にわたってチェコのモラヴィア地方(中心都市はブルノ)で音楽活動したレオシュ・ヤナーチェク(1854~1928)は、没後半世紀以上を経過した20世紀半ばから後半になってようやくオペラ作品で再評価されるようになり、今では2曲の弦楽四重奏曲や、今回演奏されるヴァイオリン・ソナタ(1913年完成)を加えて大作曲家の仲間入りをしました。ヴァイオリン・ソナタは東洋風の5音音階があちこちに現れ、ハーモニーやメロディーがそれまでのヨーロッパ音楽とはかなり違います。全部で4つの楽章からなる20分弱の作品です。
最後はヴァイオリン音楽史上最大の天才、ニコロ・パガニーニ(1782~1840)作による、ヴァイオリンの派手なテクニックが楽しめる「イル・パルピティ」作品13です。これだけでは何の曲かよくわかりませんが、楽譜に書いてあるイタリア語による正規タイトルは「ロッシーニのオペラ《タンクレディ》のアリア<こんなに胸騒ぎが>の主題による序奏と変奏曲」。この長いタイトルが曲の内容をそのまま表しています。
渡辺和彦(音楽評論家)
1954年北海道生まれ。立教大学ドイツ文学科卒。数多くの音楽放送番組の企画構成、案内を長期間続ける。『音楽の友』誌の演奏会批評のほか全国紙や地方紙で月評やエッセイ、書評を連載中。著書『ヴァイオリニスト33』(河出書房新社)、『ヴァイオリン、チェロ名曲・名演奏』『名曲の歩き方』(音楽之友社)、『クラシック辛口ノート』(洋泉社)など多数。