YOKOSUKA ARTS THEATRE

歌曲雑感~竹田舞音ソプラノ・リサイタルに寄せて

 洋の東西を問わず、音楽の始まりは「歌」だった。その歌のリズムを支える打楽器が加わり、歌を模倣する管楽器や弦楽器という器楽が発達した。やがて、その器楽が独立し、様々な「歌」ではない音楽が発展・発達する。その器楽においても「歌う」という言葉は良く使われる。それは、そのルーツが「歌」にあるからだ。
 「歌」と「器楽」の違いは何だろう?それは、「言葉」の有無である。メンデルスゾーンのピアノ曲集に「無言歌 Lieder ohne  Worte」というものもあるが。
では、その「言葉」とは何だろう?
 多くの人は、言葉は記録・伝達の重要なツールだと思っているだろう。しかし、それだけだろうか?
ちょっと想像してほしい。あなたが突然拉致されて言葉の通じない国に連れ去られたとしたら。あなたは困るだろうが、何とか生きて行こうとするだろう。しかし、「たった今から日本語で(他言語が扱える人は、それらも含めて)考えてはいけない。」と強制されたらどうなるだろう?完全な思考停止状態にならざるを得ないはずだ。「言葉」とは思考自体をも形成する物であり、民族固有のアイデンティティを司るものでもあるのだ。その「言葉」と音楽が結びついたものが「歌」なのだ。西洋音楽(いわゆるクラシック音楽)においては、「言葉」を出発点として生み出された音楽が「歌」だ。今の日本のJポップ界を席捲している「メロ先(メロディが先に作られ、そこに歌詞を当てはめる) 」とは逆の作曲過程を持つものだ。先に作られた歌詞に、オーダーメイドの唯一無二の音楽が作られる。
 クラシック音楽の世界では、最大規模の声楽作品であるオペラに対して、「歌曲」はしばしば「ミクロコスモス(小宇宙)」と呼ばれる。歌手と鍵盤楽器だけで作り上げられる緻密な内的世界の広がりと深さは、正に「ミクロコスモス」と呼ぶに相応しい。
 同じ「言葉」と言っても、オペラの「言葉」と歌曲の「言葉」は異なる。オペラの言葉が「芝居(戯曲・台本)」のそれであるのに対し、歌曲のそれは「詩」が用いられる。文学におけるこの特性の差異は、歌に転用されてもそのまま存在する。そもそも歌われる言葉は、話し言葉に比べて時間を要する。それ故に、言葉の数は小説や会話に比べて遙かに少なくなる。シェイクスピアの「オセロー」と、それをオペラ化したヴェルディの「オテッロ」の台詞を比較してみると、その違いが理解できよう。そこで削られた言葉を埋めるものが、音楽なのだ。更には、戯曲の言葉が物語のためであるのに対し、詩の言葉はより文学性の香り高いものが選ばれる。吟味され選び抜かれたそれぞれの分野の言葉は、この目的によってそれぞれ異なる音楽を纏うこととなる。オペラの音楽がかなり直接的なものであるのに対して、歌曲の音楽がしばしば隠喩的であるのは、ここに由来している。
 その「歌曲」の言葉と音楽についても振り返ってみよう。シューベルト(1797~1828)とウェルナー(1800~1833)が文豪ゲーテ(1749~1832)の詩に作曲した「野ばら」。野ばらを見つけた男の子の音楽が、シューベルトでは或る種腕白なキャラクターを想起させるのに対し、ウェルナーはちょっとエレガントさを湛えている。この差異は、2人の作曲家が詩を読み込んで抱いたイメージの違いが、そのまま音楽となったものだ。北原白秋の詩「砂山」に作曲された山田耕筰と中山晋平の音楽の違いも、前者が冬の日本海の暗さ、重さを、後者が日本海の勇壮さを感じさせる。それぞれの作曲家のインスピレーションが鮮やかに反映されているのだ。同じ詩に作曲された別の2作品を比較してみれば、詩と音楽の関係がはっきり感得できるだろう。
 こうして作られた歌曲は、その歌詞を母国語とするそれぞれの国民の民族性、歴史、価値観といった「文化」を背負っている。単に歌詞を発音するだけではなく、それぞれの民族の文化を背負っているのを認識しなくてはならない。東京芸術大学名誉教授で、芸大オペラ科や二期会を創設された柴田睦陸先生は、「現代発声というインターナショナルな技術を使って、民族固有の精神を歌うのが声楽芸術である。」と往時の筆者を含めた芸大声楽科学生に解いた。器楽奏者が国籍の壁を越えた多くのレパートリーを演奏するのに比べ、声楽家が扱う作品の国籍がある程度限定されるのも、このことに由来する。勿論、この言語の課題を補填してくれるのも、音楽の力があるからだ。日本人でシェイクスピアの演劇を英語で演ずる人よりも、ドイツ語やイタリア語の歌を原語で歌う人が多いのも、音楽の助けの有無が関係している。これは演奏する側だけでなく、聴く側にも当てはまる。優れた歌手とピアニストが演奏すれば、音楽が詩の中に込められた想念、情感、心情を感得させてくれる。歌とピアノの2人だけで作り上げられる「歌曲」の世界は、単に美しいメロディ云々という次元を越えて、完全な精神世界を形成してくれる。正にそれは「ミクロコスモス」と呼ぶに相応しい。
 まず詩があった。その詩の「言葉」に出会った作曲家は「言葉」と対峙し、歌曲という「子供」を作った。文学と音楽の双方のDNAを持つ「子供」だ。その歌曲作品に演奏者は対峙し、演奏という次世代の「子供」を作る。歌手とピアニストのDNAが、そこに加わる。その演奏に向き合い、聴き手は新たなイマジネーションの世界を、その心の内に描き出す。多くの聴き手のDNAが加わり、更なる「子孫」が生まれるのだ。これは思えば凄いことだ。聴き手は、これらの連鎖を経ながら、時代も国籍・民族も異なる「芸術」の精神を受け取り、自らの心の内に芸術的感動という独自の世界を受け取るのだ。
 虚心に、一心不乱に作品と演奏に心を傾ければ、歌曲は我々に新しい精神世界の扉を開けてくれる。
第93回日本音楽コンクールの覇者であるソプラノの竹田舞音と、ドイツ、カールスルーエ音楽大学で共に学んだピアノの左近充茉莉子によるデュオの、若さに相応しいチャレンジ精神に満ちた歌曲プログラムに期待したい。

文:國土潤一
1956年東京に生まれる。1967年より埼玉県北本市に住む。1979年東京藝術大学音楽学部声楽科卒業。1982年同大学大学院修士課程(独唱テノール専攻)修了。1983年より1987年まで、旧西ドイツ国立デトモルト音楽大学(北西ドイツ音楽アカデミー)に留学。帰国後は、ドイツ歌曲を中心とした演奏活動の他、後進の指導、合唱やマンドリン合奏を主とした指揮・指導や、「レコード芸術」「音楽の友」「モーストリー・クラシック」誌を中心とした音楽評論も行っている。

          

フレッシュ・アーティスツ from ヨコスカ シリーズ 67
竹田舞音ソプラノ・リサイタル
ピアノ:左近允 茉莉子

2025年 9月23日 (火・祝) 15:00開演 (14:30開場)
ヨコスカ・ベイサイド・ポケット
全席指定:2,000円

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